大人が自分が決めたことを、子供(幼児)のせいにしないでね【喫茶店に寄らなかった】
まず理解しなければならないことは、子供というのは発達の途中段階にあるということ。
自分の責任のもとで生き抜いていくためのあらゆる方面の力を、まさに育んでいる最中であるということ。
記憶は曖昧であるが、幼児〜小学校低学年の頃、両親と一緒に隣町まで買い物に行った。
どんな買い物であるかなど覚えていない。いつだって、何のためにどこにいくのか説明してもらった記憶はなく「早く支度しなさい」と怒られながら色々連れて行かれたからだ。
目的の施設に行くのだろうなと両親について歩いていると、突然喫茶店に入ろうとした。
「え?あそこ(目的地)に行くんじゃないの?」と私は尋ねた。
すると母が「お父さんが喉乾いたらしいから」と私に説明してきた。
私はここで激しく怒りを覚え、このように訴えた。
「そんなこと、聞いてない。」
この時の感情や周囲の情景だけは鮮明に覚えている。
私としては喫茶店に入るなら入るでもちろん全く構わないのだけれど、
「ちょっとお父さん喉乾いたから、目的の場所に行く前に喫茶店に寄りたいけどいいかな?」の一言が全くなかったのが気に入らなかったのだ。
今考えても私は一人の人として当然の反応をした。一緒に行動しているグループで突然中継地が追加されたのに、誰か一人には全く説明することがないなんてあり得るだろうか?
大人同士では絶対にやらないだろうし、そんなことしたらただのいじめか、それか想像力が著しく欠けているかのどちらかだ。
私も一緒に行動している一人の人間ですよ〜忘れずに尊重して欲しいという気持ちを、怒りで表現したのだ。いじらしい!
しかし、そうしたら両親はどうしたかというと
「じゃあいいよ!」と逆ギレ。
父親は喉の渇きを潤せなかった。
その後の記憶がないためどこかで父親が何か飲んだのかはわからないが、今ほど自販機やらペットボトルやら無い時代だったから帰るまで我慢したかのかな。あるいは帰りにあらためて喫茶店に寄ったかもしれない。
しかし、私に残ったのは罪悪感。私が怒ったせいで父親は我慢したんだろう。
40代になった今でもこのことを思い出してはごめんなさいごめんなさいと繰り返している。私はなんて冷たい子供だったのだろう。どうして素直に喫茶店についていけなかったのだろう。
父親との関係はまぁ普通に会話できるし多分普通なんだけど、私は密かに心の中で謝り続けている。今更こんな話をしても多分覚えてない。
この辛さをどうしたらいいかというと、父親に許しを乞うことでも、母親が私を蔑ろにしたことを責め立てることでもなく、多分、大人になった今の私が当時の私を癒すしかないんだと思う。
私は人として当然の反応をし、当然の欲求を親に、当時の私ができる精一杯の方法で伝えたにすぎない。
で、そんな私の言葉を受けて、
「喫茶店に行くのをやめる」
と決めたのは両親だ。
私を説得して喫茶店に寄ることもできたはずだ。
なのにきっと「面倒臭い、また娘がギャーギャー言い出した」と決めつけ、私の話を聞くことをせずに投げ出し、喫茶店に行かない、と最終的に決めたのは両親だ。
大人として気をつけなければならないのは、子供の存在や意見を対等な人間として尊重することなんだけれども、
それってイコールなんでもいうこと聞くってわけじゃ無いんだよね。
「あんたがこう言ったから私はそうしたのに!」と、子供に責務を負わせることだけはしない方がいい。その時に適切な選択を判断できるのは明らかに大人の方がスキル高いわけだし、子供に選ばせる前に大人が選択肢を狭めることだってできるのだ。
子供を尊重するふりをして、子供の言いなりになったり、子供が騒いだから折れた。ということは、親としては避けたい。
非常に忍耐のいることであるが、自分のせいで大好きな親が辛い思いをして我慢をしたのかもしれない。と思うだけで、胸が張り裂けそうだ。