脳みその蛇口

アラフォー子持ちが生きづらさで行き詰まった結果、過去を一つずつ癒すことにしたブログ

まるで猿山の職場を思い出してみる【最初の職場①】

自分の親との話ばかりしていると、それだけが私の人生の価値観を形成してしまったと決めつけてしまう視野狭窄に陥ると思う。
親の関わりで私が今こうなってしまっていることも事実だけど、それをより強化するような他者との関わりもきっとあったはずだ。


最初の職場が強烈だった。

当時は世の中で派遣などの非正規雇用が流行り出した頃で、私も非正規だった。
非正規に対する正規の人たちの振る舞いといったら、今でこそハラスメントとして訴えられるようなことばかりだった。

とんでもない職場だった。なのに私は「それでもいいところはあった」と必死に正当化しようとしている。
「憎んでいるのに愛したいと必死に肯定する」、親に対しても全く一緒。すごく疲れる。真逆のことを同時にしようとしているのだから。

今思い出してもその職場に対する思いが複雑すぎて、端的に表すことができない。だから記事を書きながら、今の私が捉え直す作業もしつつなので、読みづらい文章となるであろうことを最初に断っておく。


その職場では、ボス猿みたいな人が何人かいて、その猿たちが「こいつはダメだ」と決めつけた人だとか、あとは新人だったら無差別にいじめていいという風潮があった。
ただし当人たちはいじめとは思っていない。あくまで仕事ができるための教育と信じて疑ってなかったであろう。

私は幸いにも猿たちに取り入ることができた。よかったよかった。勝ち組だ。気に入られなかった同期たちとは違う。...と当時は思っていた。
猿たちが気にいるだ気に入らないだというのもただのお遊びだ。その職場を出てしまえばなんてことはない。私がどんなに気に入られようが、非正規でその職場を辞めることには変わりない。
だけど、気に入られたらもしかしたら正規職員になれるかもしれないという淡い期待を持っていた。その気持ちを利用されておもちゃにされていたのだ。辞めてから気づいた。辞めるまで気づけずに、いい気になっていた。

それでいて同期にもいい顔をしていて、自分では誰とでも仲良くなれる私!とか思っていた。冷静に考えると狭い世界でそんなことにこだわって価値を感じていたのかと、とても笑えてくる。泣けるほど笑えてくる。


この「誰とでも仲良くなれる私」というのは、長らく私の人生の拠り所となっていた。学校でもどんなグループの子とも話せる。会社でも、同じ部署の同僚に比べて仲良しの人が多い。
私は、特定のグループに属したり、少人数しか友達がいない様な人とは違う。
私はいつも必死にそういう自分が勝てそうな相手となるターゲットを探しては、その人よりも自分が上だと確認して安心する作業をしてきた。
で、大体勝ってきた。うまくいってた。
もしかしたら実際に私って誰とでも仲良くなれる人間なのかもしれない。本質的にそうなのかもしれない。ストレングスファインダーでも「包含」が上位にきた。

でも今の職場に来てそれが崩れた。全然勝てないし、私はことごとく、「スベって」いた。職場が悪いと思った。でも、どんなところでもやっていけると思っていたのにダメだった。
そうなると、今まで勝ってきた私が実は違ったのかもしれないという気持ちになっている。認めたくない。認めると今までの自分が全部嘘だったことになる。


話がそれたので戻す。

今思えばダラダラと満期まで最初の職場に居続けることなくさっさと正規で雇ってくれるところを探すべきだった。
非正規の人たちを集めては「許せない、正規で雇ってもらえるように働きかけなくては」と言っていた正規の人たちがいた。
実際何かしてくれたのか知らんけど、変わることはなかった。でも私は期待をした。

しかし毎日、「いつか仕事がなくなる日が来る」と恐れながら眠り、絶望しながら朝を迎えていた。
「私だったら転職きっと大丈夫!」という確信のような自信はあった。それでもその恐怖と絶望は毎日感じていた。つまり自信ではなくて、恐怖と絶望を打ち消すための虚勢だったのかもしれない。わからないけど。


いまだに朝目が覚めて天井を見上げると
「仕事どうしよう。このまま非正規で独身のまま歳をとるのかな。」
「あ、そうだもうあの非正規の職場は辞めたんだ。しかも結婚もして子供もいるんだった」
というやりとりを頭の中でする。
非正規であったということで慢性的な不安を抱えていた。不安が癖になっていた気もする。不安に感じているのが通常モードみたいな。

大人が自分が決めたことを、子供(幼児)のせいにしないでね【喫茶店に寄らなかった】

まず理解しなければならないことは、子供というのは発達の途中段階にあるということ。

自分の責任のもとで生き抜いていくためのあらゆる方面の力を、まさに育んでいる最中であるということ。


記憶は曖昧であるが、幼児〜小学校低学年の頃、両親と一緒に隣町まで買い物に行った。  
どんな買い物であるかなど覚えていない。いつだって、何のためにどこにいくのか説明してもらった記憶はなく「早く支度しなさい」と怒られながら色々連れて行かれたからだ。

目的の施設に行くのだろうなと両親について歩いていると、突然喫茶店に入ろうとした。

「え?あそこ(目的地)に行くんじゃないの?」と私は尋ねた。

すると母が「お父さんが喉乾いたらしいから」と私に説明してきた。

私はここで激しく怒りを覚え、このように訴えた。

「そんなこと、聞いてない。」


この時の感情や周囲の情景だけは鮮明に覚えている。
私としては喫茶店に入るなら入るでもちろん全く構わないのだけれど、
「ちょっとお父さん喉乾いたから、目的の場所に行く前に喫茶店に寄りたいけどいいかな?」の一言が全くなかったのが気に入らなかったのだ。

今考えても私は一人の人として当然の反応をした。一緒に行動しているグループで突然中継地が追加されたのに、誰か一人には全く説明することがないなんてあり得るだろうか?

大人同士では絶対にやらないだろうし、そんなことしたらただのいじめか、それか想像力が著しく欠けているかのどちらかだ。

私も一緒に行動している一人の人間ですよ〜忘れずに尊重して欲しいという気持ちを、怒りで表現したのだ。いじらしい!


しかし、そうしたら両親はどうしたかというと

「じゃあいいよ!」と逆ギレ。

父親は喉の渇きを潤せなかった。

その後の記憶がないためどこかで父親が何か飲んだのかはわからないが、今ほど自販機やらペットボトルやら無い時代だったから帰るまで我慢したかのかな。あるいは帰りにあらためて喫茶店に寄ったかもしれない。


しかし、私に残ったのは罪悪感。私が怒ったせいで父親は我慢したんだろう。

40代になった今でもこのことを思い出してはごめんなさいごめんなさいと繰り返している。私はなんて冷たい子供だったのだろう。どうして素直に喫茶店についていけなかったのだろう。

父親との関係はまぁ普通に会話できるし多分普通なんだけど、私は密かに心の中で謝り続けている。今更こんな話をしても多分覚えてない。

この辛さをどうしたらいいかというと、父親に許しを乞うことでも、母親が私を蔑ろにしたことを責め立てることでもなく、多分、大人になった今の私が当時の私を癒すしかないんだと思う。


私は人として当然の反応をし、当然の欲求を親に、当時の私ができる精一杯の方法で伝えたにすぎない。

で、そんな私の言葉を受けて、

「喫茶店に行くのをやめる」

と決めたのは両親だ。

私を説得して喫茶店に寄ることもできたはずだ。
なのにきっと「面倒臭い、また娘がギャーギャー言い出した」と決めつけ、私の話を聞くことをせずに投げ出し、喫茶店に行かない、と最終的に決めたのは両親だ。


大人として気をつけなければならないのは、子供の存在や意見を対等な人間として尊重することなんだけれども、

それってイコールなんでもいうこと聞くってわけじゃ無いんだよね。

「あんたがこう言ったから私はそうしたのに!」と、子供に責務を負わせることだけはしない方がいい。その時に適切な選択を判断できるのは明らかに大人の方がスキル高いわけだし、子供に選ばせる前に大人が選択肢を狭めることだってできるのだ。

子供を尊重するふりをして、子供の言いなりになったり、子供が騒いだから折れた。ということは、親としては避けたい。

非常に忍耐のいることであるが、自分のせいで大好きな親が辛い思いをして我慢をしたのかもしれない。と思うだけで、胸が張り裂けそうだ。

自分の過去を癒すためのブログを始めます【過去を無視して生きてはいけない】

過去のことで辛いことがあったな...と思い出したときに、向き合って考えるかどうか?

こういう話に対し「今とか未来を考えてそっちに目を向けて生きていった方が良い」といった意見があるだろうし、私もできればそうしたい。
けどでもそういう風にできるのは、自分だけの人生を生きている場合なんじゃないかなって思う。

というのも私は今子育て中で乳幼児が家にいるんだけれども、そうなると自分の中で処理しきれなかった過去の幼少期の記憶が子供と重なってどんどん掘り起こされていく。

さらに子育て中っていうのは余裕やゆとりがなくなる瞬間が頻繁に訪れるため、自分の本性と言えるものがむき出しになる場合がある。平静を装うことができるのは、それだけゆとりがあるからだ。
自分の本性が剥き出しになった時、子供に対して攻撃的な態度を取り傷つけてしまうような物言いをするのか?それとも自分に巻き起こっている事象を冷静に捉えて過去の自分を癒す行動に出るのか。私は後者を選べるようでありたい。


今私は大人になったので、頭で考えてなんとかすることができる。
過去の自分...辛かった自分も、頭で考えたりいろんな人の考えを借りたりしながら処理していくことができる。辛かった!こんなことがあった!でも今は大丈夫なんだ。と捉え直すことができる。
それをしないまま「今が大事だ未来が大事だ」と見ないふりをしたとしても、過去に感じたことや事実は消えないし、それによって今の自分が形成されているのも事実なので、それを無視して今を生きようとしても...例えば、足場のない状態でいくら上の方で頑張ったとしても...ふとしたきっかけで結構簡単に崩れてしまう。

それこそ独身時代の、自分の仕事とか自分の人間関係だけで悩んでればよかった日々だったら「過去なんて振り返らない、今と未来だけを考えて」系の前向きな生き方をしても大丈夫だったかもしれない。
けど先ほども説明したように今の私にはそんなゆとりある生活はできない。だからここで振り返ってみたいと思う。


幸いSNSなどが普及してきて私みたいに感じている人は世の中に一定数いるんだっていうことがわかって安心感がある。

だって小さい頃から友達とか他の人たちを見て私だけなんか違うと思っていて。
それはなんだろう...選民思想のような「私こそ選ばれた人間だ!」とかそういう意味じゃなくて、
みんなが普通にできていることが私にはできないって言う絶対的な劣等感というか、私だけが変で私だけが辛くて私だけがへたくそでって言うような確信を抱きながらずっと生きてきて。

でも他人の気持ちとか意識に入ることはできないから、もしかしたら私みたいにみんなも表には出さないけどそういう苦しみを抱えてるんじゃないかな? と思ってたけどどうやらやっぱり違くて、みんな普通に生きてて私だけ変だ、と思ってる。

他の人の発信を見て、私みたいな人が一定数いるみたいだということがわかって、そうだったらもう私が存在してるってことも...なんだろ、ある意味自然というか、こういう状態の自分も世の中で見たら不思議ではない存在なんだって言う...なんだろうなぁ、うまく言えないんですけど安心感があります。


だから私と同じような人がもしいたら、このブログを見て

「あー私とおんなじような人がいる!同じやん!ワシやないか〜い!」

って共感してくれたらいいし、そうでなくても「こんな人いるんだおもろ」って思ってくれたら私の承認欲求は満たされる。
それに何よりこうやって文章にしていくことで、過去のことが精算できるというか。自分の中に巣食っている何かをころしていけるような感覚があるので、ここに残していきたいと思います。


繰り返しになりますが「過去を見るより今や未来に目を向けて」って言う考えでは立ち行かなくなってるのでこういうことをします。

過去を見ずに今や未来だけ生きていける人はそうすればいいと思います。

けど今の私の状態はではちょっと難しいです。なのであえてここで、過去にこんなことがあったとか、その時自分はどうだったか?で、それを見た今の自分がどのように捉えていくのか?って言うことを書いていきたいと思います。

なので読んでて気分爽快になるような文章っていうのは多分少ないと思います。

興味本位で読んでくれたらすごくうれしいです。


書いていて気をつけたいのが、あくまでフォーカスしたいのは私自身のことであって他人のことじゃないので、よそ様のことを悪く言うような記事は書かないようにしたいなと思います。